人吉海軍航空隊が活動した期間はわずか、1年9か月間、大変短いものです。
いまから72年前、昭和18年11月に教育航空隊、特攻基地の中継基地として建設が始まり、翌年2月には、人吉海軍航空隊が発足します。

このページでは、人吉海軍航空隊の歴史を年表形式でまとめてみました。

  • 1943 11月
    人吉海軍航空隊基地 建設開始
    1943年(昭和18年)、日本の彼方南の空では、アメリカ軍との戦いで多くの航空機を消耗し搭乗員の養成が急がれていた。
    そこで基地建設の計画が持ち上がり、球磨川と川辺川が合流する丘陵地に建設されることが決定された。それが人吉海軍航空基地の始まりである。
    11月の測量から始まり、軍人はもちろん民間人も徴用され突貫工事で庁舎居住地区および飛行場地区の建設が開始された。
  • 1944 2月1日
    第18連合航空隊人吉海軍航空隊の誕生
    1944年(昭和19年)2月1日、人吉海軍航空隊が設置され、海軍予科練習生(予科練)甲飛14期生の整備科候補生が入隊。
    この日、出水飛行場にも人吉海軍航空隊出水分艦隊も設置されている。
  • 1944 8月15日
    人吉海軍航空隊出水分艦隊の独立開隊
    人吉海軍航空隊の開隊から半年後、出水分艦隊は独立し第18連合航空隊第二出水海軍航空隊に所属することになる。
  • 1945 3月1日
    第18連合航空隊の解隊
    1945年(昭和20年)3月1日のこの日、第18連合航空隊は解隊され佐世保鎮守府隷下第22連合航空隊へ移籍。
  • 1945 3月18日
    アメリカ海軍航空母艦艦載機による初空襲
    1945年3月18日、アメリカ海軍機が人吉海軍航空基地に飛来し、機銃掃射や爆弾による空爆を実施。
    高射砲で応戦するも、この攻撃により航空隊所属の9人が戦死、1人が重傷を負う。また、同基地から500mほど離れた場所に住んでいた4人の民間人も逃げ遅れ死亡している。
    同日、アメリカ海軍インディペンデンス級航空母艦「カボット」の艦載機が宮崎上空から大牟田までを飛行し、各地の基地を撮影した記録が残っている。
  • 1945 4月8日
    隧道地区の建設とB-29の飛来
    1945年3月に爆撃にも耐えうる地下軍事施設を建設するため、第521設営隊が編成され地下に多くの工場や倉庫の建設が進められていた。
    主な施設として、兵舎・弾薬庫・魚雷庫・作戦室・酸素発生工場など。
    また、同時期に硫黄島の戦いに負けアメリカ軍に占領されると、大型爆撃機B-29「スーパーフォートレス」が飛来する回数が増え、
    1945年4月8日には出水飛行場を目標とした空襲も行われた。
  • 1945 5月14日
    人吉海軍航空基地最後の空襲
    アメリカ海軍インディペンデンス級航空母艦「サン・ジャシント」の艦載機16機が人吉海軍航空基地に飛来。爆弾投下や機銃掃射を行い多数の建物に被害があったが
    さいわい死者は出さず、応戦した機銃員1人が負傷。その他家屋や家畜に被害が出た。
    この頃、「赤とんぼ」の愛称で親しまれた九三式中間練習機による特攻訓練が行われるようになった。
  • 1945 6月1日
    本土決戦に向けて
    この日、整備訓練教育が凍結され本土決戦用地上線部隊として変更される。
  • 1945 7月10日
    人吉海軍航空隊の解隊
    人吉海軍航空隊は解隊され、人吉航空基地施設と改称。九州航空隊人吉派遣隊が駐屯する人吉海軍警備隊となる。
    基地は「中型練習機・軽爆撃機ヲ以テ作戦スル施設」と指定され、地下施設や工場を利用した兵站基地・作戦基地として位置付けられることになる。
  • 1945 8月15日
    第二次世界大戦の終戦
    1945年(昭和20年)8月15日正午、昭和天皇による「終戦の詔書」の玉音放送が全国民に流れ、第二次世界大戦の終戦が決定する。
    終戦時に基地にあった機体は九三式中間練習機96機や雷電1機、零式艦上戦闘機2機、九六式艦上戦闘機19機など多くの機体が残っていた。